「意志」2025年7月
- tetucafe3
- 2025年7月30日
- 読了時間: 3分
更新日:2025年12月6日
「意志」と聞くと昔「意志が弱い」と叱られたことを思い出す、中途半端で投げ出すことがコンプレックス、という話から始まりました。体の不調からくる意志の弱さも感じられることから、「意志」は生命力とも関係があるのではないかという意見が出ました。何でもやりたい、動かずにはいられない、というような、体から湧いてくる意欲・エネルギー的なイメージも「意志」にはあるようです。
「意志」の意欲的な面は、動物的な感じがする。欲望のようなもの。
一方で「意志」の哲学的・理性的な面は、社会環境によって作られた、善意志で、自由を制限する感じが一般的に「意志が強い」というと、「欲望を抑え込むことができる」という意味になることが多い。
空腹でも隣の人の食べ物を盗って食べないのは「意志」によるもの。このような社会環境によって作られた「意志」は、人々の「意志」の総和のようなもので方向性がある。環境にうまく適応できるようにプログラミングされたもの。宗教や道徳による条件付けのような考え方もある意味プログラミングされたもの。
動物的な欲望としての「意志」も、自然環境からプログラミングされたものかもしれない。
・AIには「意志」がないように思われるが、それはなぜだろう?
・犬が「おあづけ」と言われたら餌を食べないのは「意志」ではないと思うのはなぜ?
・自分から片づけたいと思っていたところに「かたづけなさい!」と言われるとやる気をなくすのはなぜ?
・世間のルールや道徳などに感じる「不自由さ」「やらされ感」は何?
いずれも最初は他人や社会から教えられたり強制されたりして、本能的欲求を抑えることから始まるが、それらが単なる制限ではなく、もっと周りとうまくやっていくための知恵だと納得し、自分から選び取るようになったとき、社会の「意志」が自分の「意志」になる。
・「意志」はものに込められたり伝達したりできるか?
・若者が自分探しをするように、「個の意志」はなくてはならないものか?
・「意志」がないとは?
わがままが純粋意志でもない。世間的に認められることによって得る幸福感もある。ルールや道徳の中に理念の普遍性を見出すときに人は納得し、それを自分の「意志」とする。みんなで合意して作ってきたものが道徳。間違ったルールや道徳はいずれ崩壊する。
・ルールや道徳などは認めて従うとやらされ感がない。自分は認める自由があるが、もし他人が「認めない」と言ったらそのわがままは認められるべきか?
わがままも認められるべき。強制だけではもし嫌々従っても、次の「意志」につながらない。数学の定理を覚えるだけでなく、導き出すやり方から教える、やられた相手の感じ方を聞くなど、現実を皆で検証する、といった自由な教育、解けた喜びを感じる教育がいい。強制ではなく「意志」を発揮して生きられる社会が幸福・平和には欠かせない。




コメント