「理解」2025年2月
- tetucafe3
- 2025年2月25日
- 読了時間: 2分
更新日:2025年12月6日
「言葉のみで進行する哲学カフェで、どこまで参加者同士が理解し合えるのか」そんな気づきが欲しくて設定したテーマでした。
まず「理解には、数学などの答えが決まっているものについての理解と、人間関係などの曖昧さが強いものへの理解の2種類がありそう」という話から始まりました。「人間関係などへの理解は同意、共感、賛成、といった言葉でも表され、誤解を許すもの。なぜなら言葉には限界があり、人間的なものは言葉で表現できないものを多く含んでいるから。分かった気になったときに知ろうとする気持ちがなくなり、理解はそこでストップしてしまう。よって人は理解し合えないことを前提に話し合うべきではないか」
そんな意見が出たところで「にもかかわらず人は社会を築けたよね」という意見や「人は理解し合えない、を前提にするのはネガティブすぎるのではないか」という意見が出ました。
「内観できる人同士が共感をもって自分の体験に基づいて話すときとても心地よいし、話し手の背景をよく知っていて信頼していたら反対意見も受け入れられるが、そうでない人の反対意見は受け入れられない、前の話者の言葉を引用するのは自分の意見を持っていない証拠、それなら話してほしくない」といった感情を含んだ意見も出ました。
ここで前提を合意することはあきらめ、この場で進行中の対話を例にとって「今現在相互理解がどのように進んでいるのか」話し合いました。
哲学カフェの共通課題である「反対意見の扱い」「引用の扱い」「参加者の属性の扱い」についても、有意義な見解が得られたと思います。「よく理解してくれて、よく否定してくれたと思う人はいない」は名言だと思いました。
また「参加者同士の意見が同じ土俵に乗ったとき、そのグループそのものが生き物のように動き出し、誰も予想していなかった見解にたどり着くことがある」というのは、哲学カフェファンが一度は体験していて、ぜひまた味わいたいと思っている感覚なのではないかと思いました。理解とはそんな言葉を超えた身体感覚なのかもしれません。




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